真夏の夜に雪を想う

中上健次を読んでいる。読むのは初めてだ。不思議なことにいくつも映画化されていながら一本も観ていない。これだけ生きていながら全く触れずに生きてきたわけだが、そういうことは誰でもあったりするし、こうやって初めて触れる機会があっただけいいのだろう。さて、わざわざこのことを文章にしたことにはわけがある。いくつかの中上健次作を読んでいてふと頭の中に浮かんだ風景が自身の幼少期の風景なのだ。僕の生まれは雪国だ。今は、もう降雪量も減ってきて雪国と言えるかは定かではないが。僕が生まれたのは雪の降る深夜だった(と、聞かされている)。今は遠く離れた東京に住み仕事をしていて、年に一回あるかないかの都会の雪は僕の田舎の雪とはどうも性質が違う。水気は多い気がする。だが、それ以上にしんしんと降る雪ではない気がする。車や人、街のBGMがしんしんさを消し去っているのだろうか。僕の故郷の雪は本当にしんしんと降る。高校時代、バイト終わりの夜は誰もいない国道を自転車で帰っていたが、あの自分しかいないような静けさを今でも思い出す。自転車のチェーンが1つづつ噛み合って規則正しく前に押し出してくれる音しか聞こえない。降雪は視界も悪くするために、前を見ても、後ろを振り返っても本当に誰もいないように感じる。街灯は今と違ってLEDではなく、少し赤みがかった色も多く、その光に照らされた雪景色は今思えば幻想的でもある。朝になれば、本当に雪は白く、太陽の反射で眩しいくらいになる。そのうち、雪がタイヤと泥除けの間に詰まってしまい、その度に自転車から一旦降りて詰まった雪を棒などで掻き出す。家について降りた後にもう一度それをやる。やらないと詰まった雪は翌朝には氷となり、漕げなくなってしまう。そんな風景を僕は何回も思い浮かべた。

志乃ちゃんは自分の名前が言えない

志乃ちゃんは自分の名前が言えない を観た。

ネタバレも的な文章もあるのでお気をつけくだされ。

 

 

 

なんて書くと、まるで自分がその作品をわかりきったように聞こえてなんだかそうなのかなとも改めて思ってしまう。それはさておき、原作漫画とも見比べて、現実側にシフトさせた、素晴らしいシナリオだと思った。やはり大きいのは菊池くんの設定とラストだろうか。志乃ちゃんが加代の家で菊池くんと初めて三人で歌い始めようとするが歌えないシーンは原作と映画だと志乃ちゃんの思うことがちょっと違う。映画の方が複雑だ。映画は原作に比べて三角関係に力点を置いていて、そのために最後のシーンは原作とまるで違う。僕は映画版はシビアなものを見れて良いなと思った。一応補足しておくと僕は押見修造は素晴らしい作家だと思っている。人の本質を見抜いて像に昇華できる現代の若手トップランナー押見修造西川美和だと思っている。

話は戻るが、ラストシーンで映画版の素晴らしいところは自発的に志乃ちゃんが言葉を発するところだ。本当に感動する。よく原作とラストは違いますなんて謳い文句の映画やドラマはあるが、今作はうまくできていると思った。というか、まるで原作のラストの前にあってもおかしくないシーンなのである。

さて、映画を観たのは理由があって、僕自身も言葉を発することこに、少々不備な部分があるからだ。日常生活で問題があるレベルではない。ただ、どうやってその不備を「誤魔化そうか」と生きてきた人生でもある。そして僕なりに誤魔化し方法を会得したつもりだ。その方法は「話さない」「代替え」という志乃ちゃんと同じ方法だ。だが、話さないと代替えの方法は見つけれないのである。つまりは、幾多の困難があろうとも話すことを始めなければ、多分僕の人生は始まっていなかったのだと映画を見ていて僕は思った。別におしゃべりなわけではない。話がうまいわけでもない。的確に要点をまとめて論理的に話せるわけでもない。でも、何かしらの言葉で外に出ていかなと、実践的な自分の言葉は見つからないのかもしれない。そんなことを思った夜だった。

 

空振る

今日は休みだった。というか休みにした。

僕は個人で仕事をしていて(いわゆる個人事業主フリーランス)、ある程度忙しくない時ならなんとなく休みを自由に設けられている。ただ、急に休みにすることは滅多にない。でも今日休みにしたのは単純に気持ちが入らなかったからだ。ここ数日、何個か出していた企画コンペの結果がきたのだけど全て落ちていた。正直うっすら難しいだろうなとは思っていたのだけど、いざ結果を見るとやはり堪える。まず、自分が受け入れられていないというか否定されている様な気になる。もちろん今まで恐ろしい数の落選を経験してるわけで、耐性がなくはないと思っているのだけどそれでも堪える。もう1つは、一緒に企画の立ち上げ等々かなりの尽力をしてくれた仲間の顔が浮かぶわけである。落胆の顔。そして、これからも一緒にやってくれるだろうか。といった具合にいろいろなことが混じり合って、もやもやが消えなくなってくる。それが今日の朝にピークを迎えて、もう今日は休み!てな具合になったわけだ。つくづく、僕が一般的な会社員としては適性がないのだろうなと思う。でも、他の人ならこれくらいのことがあっても自分を律して出社するんだろうなとも思う。個人で仕事をしていると自分への甘さがダイレクトにわかる。何はともあれ仕事をしないと決めた日だけど何もやる気が起きず。お昼は近所の中華料理店に食べにいった。ピーマンと鶏肉の炒め定食。これがなかなかに旨い。店自体、大体のものが旨いのだけど、弱った自分には格別に染みた。夕食も作る気にならず、行きたかった渋谷のラーメン屋に向かったのだけど、まさかの自分が店につく直前に閉店時間を迎えていた。多分あと3分早く着いていたら食べれたと思う。仕方なく、iPhoneでグーグルマップを起動しラーメンと打ち込み一番近い店に向かった(思えば昼中華で夜ラーメンって油量がすごいな)。このグーグルマップが教えてくれた店がまたひどかった。店員に日本人は0、客も半分以上日本人以外。店名は思いっきり日本風。店が汚い上に、店員は客席に座って携帯いじるわ、私語の嵐。いい気持ちにならなかったが、ラーメンはなかなか美味かった。そのあとは渋谷初中野行きバスに乗って帰ったのだけど、ふと思い立って途中の初台で降りてfuzkueに行った。やっていなかった。事前にHPなり見ろよと自分に言い聞かせ、またバスに乗って中野に帰った。結果的になかなか空振りが多く気持ちも晴れないのに、食べたものは皆美味しいというなんとも舌だけが満足な1日だった。

電車の扉に手を挟む

といっても自身のことではない。

今日の帰りの電車で起きたことだ。地下鉄に乗っていてとある駅に電車が停まり、幾らかの人が乗り込んできて出発しようとした時のことだ。多分歳は30台半ばだろうか、男性二人と女性一人の三人の酔っ払いグループが閉まる扉めがけて駆けてきた。もう乗車は間に合わないと判断したのだろう三人は乗り込むのを諦めたように見えたのだが、その中の男性一人が何を思ったのか、片手の手のひらを出してわざと閉まる電車の扉に手を挟んだのだ。わざとというのは明らかに閉まる扉の前で一時停止し、頃合いを見計らって手を出したのもそうだし、何より表情がそれを物語っていた。僕は青ざめてどうしようかと思った。扉を強引にでも開かないと手を引っ張られて大変なことになってしまうからだ。けれど、手を挟んだ男性は何事もない様に力ずくで手を引いて扉から抜き出した後、笑っていた。僕はホッとしたのだけど、ちょうど僕の前にいた乗客の口元は笑っていた。その笑顔がどうも忘れられない。どう考えてもおかしいと思う。どう考えても目の前で起きたことがジョークだとは思えない。それとも、その乗客の笑みは冷笑だったのだろうか。手をわざと挟んだ男性しか目に入らなければ多分こんなことを書かないだろうけど、それを見ていた乗客の口元を見てしまったがゆえに、脳裏に強く焼き付いてしまった。

 思えば、僕はこういう何かが起こった時にそれを見ている他の人物を注視することがよくある気がする。極端な例を出すと、葬式で自分以外の参列者はどんな顔をしているかといった具合だ。そして、何故かその表情をよく覚えている。そんな事をしている(かなり明確に覚えている)自分をちょっと信じられないと思うことがある。それでも僕は見てしまう。

運とはなんなのか

少し前に、ふと思いたって占いをしてもらった。

今まで占ってもらったことなんてなかったし、一体どんなことを言われるのかに興味があったからだ。

結果は、なんだかなあと言う感じ。こちらの情報を少し開示して、それに少しだけ沿っているようないないようなことを聞いた。ある程度話を聞くと質問はあるかと聞かれたので自分には運だとかヒキがあるのかと聞いてみた。すると、結局のところパラレルワールドじゃないけど、世界線は分岐の連続だと言われ、それを言ってしまっていいんだろうかと思っただけだった。というなんともモヤモヤした体験をしたのだが運とはなんなのだろうか。「スパイクス・ギャング」という映画がある。映画はスパイクスという名のある懸賞首についていく青年たちの話。その中でスパイクスたちの所にベテラン(と言っていいんだろうか)の賞金首が手を組もうと言ってくるシーンがある。スパイクスはそれを断るのだけど、そのセリフが「もう運を持っていないから」(という感じだったと思う)だった。このシーンはよく覚えていて、運とは残数があるんだろうかと思ったことを覚えている。

わからない

人の気持ちがわからない。

これって永遠の問題だと思う。

僕らは優れた言語というツールを持っているけど、

それは優しくなりうるし武器にもなる。

使わない時も多い。

そして、世界の共通言語は統一されていない。

完璧に分かり合えることなんてないんだけど、何かしらの補完によって我々は多分わかりあうことができるのだろうとも思う。つまりわかりあうための完璧な「何か」は存在しない。それでもそれを見つけるために戦い続けなければならない。

生きてると諦めの連続だっていうけど、そう簡単に諦めちゃいけないことばかりなんだろうな。

 

 

大雨

麻原彰晃が死刑執行された。そんな日に西の方では大雨特別警報が出ている。

別に何か関係あるかと言ったらないのだけれど、関連の本とか映画とかができるときはその中では雨が降っているんだろうなと思う。

 

最近の僕は、生活も仕事も本当に上手くいっていなくて、結果が出ていなくて苦しい。

こういった時に何ができるかをきちんと考えていくのが必要なのだとは思うけれどつい飲酒で紛らわそうとしたりする。

僕はタバコもギャンブルもしないので飲酒をするのだけど、最近はよく一人で飲みにいく。

友人とでもいいのだけれど、こういう時の自分は弱っていることを隠そうとして下手に饒舌になったり、自分の話題が出ないように気をつけたりする。

安心してその場を楽しめない。解散した後、初めは「ああ、楽しかったな」なんて思うのだけど、そのうちひどく自己嫌悪に陥る。

自身の振る舞いを思い出して情けなくなるからだ。これは自分の問題でこういう振る舞いをする以上、これからもそうなってしまうんだろうか。