志乃ちゃんは自分の名前が言えない

志乃ちゃんは自分の名前が言えない を観た。

ネタバレも的な文章もあるのでお気をつけくだされ。

 

 

 

なんて書くと、まるで自分がその作品をわかりきったように聞こえてなんだかそうなのかなとも改めて思ってしまう。それはさておき、原作漫画とも見比べて、現実側にシフトさせた、素晴らしいシナリオだと思った。やはり大きいのは菊池くんの設定とラストだろうか。志乃ちゃんが加代の家で菊池くんと初めて三人で歌い始めようとするが歌えないシーンは原作と映画だと志乃ちゃんの思うことがちょっと違う。映画の方が複雑だ。映画は原作に比べて三角関係に力点を置いていて、そのために最後のシーンは原作とまるで違う。僕は映画版はシビアなものを見れて良いなと思った。一応補足しておくと僕は押見修造は素晴らしい作家だと思っている。人の本質を見抜いて像に昇華できる現代の若手トップランナー押見修造西川美和だと思っている。

話は戻るが、ラストシーンで映画版の素晴らしいところは自発的に志乃ちゃんが言葉を発するところだ。本当に感動する。よく原作とラストは違いますなんて謳い文句の映画やドラマはあるが、今作はうまくできていると思った。というか、まるで原作のラストの前にあってもおかしくないシーンなのである。

さて、映画を観たのは理由があって、僕自身も言葉を発することこに、少々不備な部分があるからだ。日常生活で問題があるレベルではない。ただ、どうやってその不備を「誤魔化そうか」と生きてきた人生でもある。そして僕なりに誤魔化し方法を会得したつもりだ。その方法は「話さない」「代替え」という志乃ちゃんと同じ方法だ。だが、話さないと代替えの方法は見つけれないのである。つまりは、幾多の困難があろうとも話すことを始めなければ、多分僕の人生は始まっていなかったのだと映画を見ていて僕は思った。別におしゃべりなわけではない。話がうまいわけでもない。的確に要点をまとめて論理的に話せるわけでもない。でも、何かしらの言葉で外に出ていかなと、実践的な自分の言葉は見つからないのかもしれない。そんなことを思った夜だった。